用語解説

中国ロックに関連する主なワードをここで説明します。

●90現代音楽演唱会

 1990年2月17・18日、北京首都体育館で行われたロックコンサート。参加したバンドは、寶貝兄弟楽隊ADO楽隊1989楽隊眼鏡蛇楽隊唐朝楽隊呼吸楽隊で中国最初の大型ロックコンサートとなった。中国ロックが地下から地上に出た時であり、中国では1969年のウッドストックに相当すると答える人もいるほど、とても意義のあるコンサートであった。それぞれ演奏した曲と担当したボーカルは、
寶貝兄弟楽隊 「城里人」(常寛)、「揺滾軽騎」(常寛)、「作風不好」(常寛)、「煽起来」(陳勁)、「病人」(陳勁
ADO楽隊 「鬼」、演奏曲、「我不能随便説」、「[イ尓]爺爺,我姥姥」
1989楽隊 「帯[イ尓]去[口那]児」(秦勇)、「五陰熾盛」(臧天朔)、「図騰」(秦[王奇])、「別総站在[口那]児」(秦勇
眼鏡蛇(女子)楽隊 「新長征路上的揺滾」、「溜溜的[女也]」、「南泥湾」、「従来再来」
唐朝楽隊 「誰都希望」(張炬)、「粉霧」(張炬
呼吸楽隊 「新世界」(曹鈞)、「譲我站立起」(高旗)、「別再試図阻[才闌]我」(蔚華)、「我不再忙」(蔚華)、「太陽昇」(蔚華

●2000年現代音楽演唱会

 2000年9月16日に北京のオリンピックスタジアムで開かれた、大型ロックコンサート。参加バンドは、阿凡提楽隊爻釋・子曰楽隊・羽泉・花兒楽隊指南針楽隊唐朝楽隊痩人楽隊輪廻楽隊黒豹楽隊。北京での大型ロックコンサートは、長い間開くことができなかったため、このコンサートは、“90現代音楽演唱会”に次ぐ大型ロックコンサートであると言われた。近年の規制緩和でようやく開くことができたこのコンサートは、後世にも語り継がれるに違いない。

●CCTV(中央電視台)

 中国国営最大のテレビ局、中央電視台のこと。とてもお堅いところで、中国ロックのミュージシャンはとても出演することができなかった。しかし、1999年12月に唐朝楽隊が出演したほか、2000年2月の春節晩会では、臧天朔朴樹が出演し、以後、有名ロックバンドも出演するようになった。

●Kurt Cobain(カート・コバーン)

 アメリカのグランジバンド、NIRVANA(ニルヴァーナ)のボーカル。中国語では「可特,ka班」。1994年4月5日に自殺して以来、中国でも有名となり、グランジブームのきっかけを作る。周靱許巍の1stアルバムは、グランジ色が強く、NIRVANAを影響を受けたと思われる節がある。その後、グランジブームは1998年のパンクブームの登場によって消え去ったが、1999年頃でも街中ではKurt Cobainグッズ(Tシャツ・ライターなど)が売っていたり、毎年追悼ライブを行ったり、音楽雑誌ではKurt Cobain特集が組まれたりと、彼を崇拝し続けるものは数多くいることが分かる。

●VCD

 中国では、ビデオがほとんど普及していないかわりに、VIDEO-CDが普及している。画像はVHSの3倍速で録画したものと同程度で、書きこみができないが、単価が非常に安い。中国でライブビデオ・MV等を発売するときは、このVCDとなる。ただ、海賊盤のほうが普及しており、正規盤もすぐコピーされるため、レコード会社はあまりVCDを発売しない。日本で見る場合は、パソコンを使用するのが最も便利である。

 ちなみに、中国でのVCDの発音は、「ウィシーディー」。

●不挿電酒[ロ巴](Unplugged Bar)

 王磊が1998年、広州で開いたライブハウス。当時、北京にはKEEP IN TOUCHなどのライブハウスがあったが、広州にはライブハウスが無く、広州のバンドは活動の場が制限されていた。そのため、Unplugged Barがオープンして以来、広州だけでなく、深[土川]などのバンドが集まり、多くのバンドが毎週のようにライブを行っていった。海外のバンドもライブをしたことがあり、1998年8月25日には、大友良英がライブを行った。1998年から1999年の間、南方音楽活動の拠点となったが、1999年11月14日になり、区画整備のために閉店に追いこまれてしまった。

●一無所有

 1986年5月9日に第一届百名歌星演唱会が開かれ、その舞台で崔健が、王迪劉元をバックに従えて歌ったのが、この「一無所有」だった。以後この曲が中国ロック史上最初に歌われた曲として、記念碑的存在となる。特に1989年には、この曲が民主化運動の際に学生達によって歌われ、反体制の象徴的歌として位置付けられる(※西側マスコミの報道によるところが大きい)ことになり、世界中の中国人(華僑)や、外国人に知られることとなった。

●鶏冠頭

 モヒカンのこと。鶏の頭に似ていることからこう呼ばれる。

●KEEP IN TOUCH(保持聯絡)

 1996・7年頃、王勇が北京の朝陽区に開いたライブハウス。とても小さな空間であったが、ライブハウスがほとんどなかった中国では、貴重な場所であり、数多くの有名ロックバンドがここでライブを開いた。北京のライブハウスでは少し高い位置にある存在であったため、ここでライブを行えるバンドは有名バンド、もしくはインディーズシーンで着実に力を付けて来ているロックバンドしかライブを行えなかった。またオーナーの王勇唐朝楽隊とは仲が良かったため、張炬のバイクを展示したり、張炬追悼コンサートを開いたりした。ライブを行わない日は、ジャズバンドが演奏したり、映画を流していた。

 1999年6月には海淀区にKEEP IN TOUCH2を開店し、ライブ活動を2の方で行うようになり、かつてのKEEP IN TOUCHは区画整理工事のために閉店。しかし、開店したばかりのKEEP IN TOUCH2の方も、店を元・唐朝楽隊のマネージャー孫浩に譲渡したため、この名称は消えることとなった。

●校園民謡(キャンパス・フォーク)

 大学を中心にフォークソングが大流行した。この火付け役は、1994年に大地唱片が発売した『校園民謡』シリーズ(3作)である。日常的な事(学生生活、恋愛等)をそのまま歌ったり、ギター1本で出来る簡単なメロディーが中心であったため、すぐに多くの人に受け入れられた。ちょうど日本の1970年代に起きたフォークソングブームと似ている。キャンパス・フォークで有名になった人物は、高曉松老狼など。アルバム発売以後、数年間ほどブームが続く。

 1999年にも、高曉松の会社である麦田音楽が製作した朴樹のアルバムが大ヒットとなる。このアルバムはロックのメロディがふんだんに取り入れられているが、基本はキャンパス・フォークであり、アルバムの代表曲「白樺林」はギターのみの伴奏による、キャンパス・フォークの流れを受け継いだ作品である。その後もキャンパス・フォークの延長線のアルバムがいくつか発売されるなど、現在でも人気のあるジャンルである。

●原創反盗維権大型演唱会

 2000年10月8日に北京工人体育場で行われた海賊版反対コンサート。正式名称は“新世紀成功之夜曁反盗維権−−−中国華語原創力量総動員演唱会”。華納・麦田・普[シ来]・索尼・百代・正大・麒麟童・新楽・星工場・竹書・喜洋洋・BMGの12のレコード会社から40人以上の歌手・バンドが参加した。このコンサートで最も注目を浴びたのは、崔健が久々に北京の大型コンサートに出演したことであった。

●真唱運動 反仮唱運動

 崔健が行っている運動。近年の歌手は、「仮唱」(偽りの歌)、つまりコンサートでもカラオケや、クチパクで歌っていることが多い。そのような状況を打破するために、「真唱」(本当の歌)を歌い、「仮唱」を無くそうというもの。商業的な意味合いはまったくなく、自分自身のために行うもの。2002年8月7日、北京でスタートし、雲南麗江、青島、深[土川]、南京、徐州、上海などでも活動を行った。2005年8月6日、北京楓花園汽車電影院で三周年記念ライブを行い、真唱運動を終了した。その理由として、国務院によって修正された『営業性演出管理条例』の中に「仮唱は非合法である」と明記された。そのため、真唱運動は成功したと考えたためである。同年9月1日より、同法律は施行された。

●SCREAM CLUB([ロ豪]叫倶楽部)

 1998年1月、呂玻が北京の五道口に作ったライブハウス。数多くのパンクバンドがここでデビューし、毎週ライブを行った。特に有名なのは、ANARCHY BOYS腦濁69反光鏡無聊軍隊と呼ばれる4バンドである。ライブハウスはとても小さく、音響は最悪で、ドラムも壊れたものを使用していたが、活躍場所の無いパンクバンドにとっては聖地のようなところであった。また、外国人から好評で、週末には多くの人が入っていた。中国のライブでは珍しく、ダイブなどが行われ、中国で最もホットなライブスポットとなった。しかし、経営状態は芳しくなく、翌年1月には閉店。その後は、オーナー不在のままライブ活動を行ってきたが、1999年夏迄には完全に閉鎖した。2000年になり、新しいオーナーが檸檬倶楽部という名称で復活させたが、同年、閉店となってしまった。

 “[ロ豪]叫(SCREAM)”という名称は、1999年に呂波が北京京文音像内に設立したレーベルに用いられ、以後このレーベルから『無聊軍隊』・痩人冷血動物などのアルバムが発売となった。

●上海’90現代演唱組首展(上海第1回’90現代バンドコンサート)

 1990年7月29、30日に上海黄浦体育館で行われた上海初のロックコンサート。参加バンドは、電熨斗演唱組重點工程楽隊女子演唱組太極光楽隊學士楽隊特混楽隊の6バンド。このコンサートは金武林が企画した。中国ロック初期に開かれたロックコンサートのひとつであるが、この後、上海ではロックバンドが育たず、以後1990年代末に到るまで、上海バンドによる大型ロックコンサートは開かれなかった。

●深[土川]的春

 1990年5月、黒豹楽隊のマネージャー・郭傳林黒豹楽隊1989楽隊眼鏡蛇楽隊常寛を引き連れて深[土川]に行き、“深[土川]之春”コンサートを開いた。このコンサートに関してあまり注目されることはないが、北京のバンドが初めて北京以外で開いた大規模なコンサートであった。また、黒豹楽隊がレコード会社との契約するきっかけともなった。

●首都体育館

 北京最大の体育館。18000人収容。ここでは、スポーツが行われるだけでなく、中国音楽史上に残る数多くのコンサートが開かれた。外国人アーティストもここでコンサートを開き、1999年にはCHAGE&ASKAがコンサートを開いた。

●春節聯歓晩会

 旧正月の際に中央電視台で放映される総合娯楽番組。ヒットした歌謡曲や漫才のようなもの、民族舞踏など多くの催し物があり、日本の紅白歌合戦のような感じである。中国人は全員この番組を見るとまで言われるほどであり、その影響力は計り知れず、多くの歌手はこの番組に出るのが夢である。ただ、政府高官も見る番組なので、ロックアーティストはこの番組に出られなかった。しかし、2000年の「春節聯歓晩会」では、臧天朔朴樹が出演。彼らの歌は歌謡曲に近いとはいえ、中国のロックアーティストにとっては初の快挙であった。中央電視台以外の地方のテレビ局でも独自で春節聯歓晩会の番組を手がけることもあるが、それは中央電視台ほど規制が強いわけではないため、ロックバンドなども登場することがある。

●新郷揺滾音楽節

 河南省の小都市、新郷のサッカースタジアムで行われたロックコンサート。近年を代表する大型ロックコンサートが開かれ、1998年6月の第1回は、超載楽隊清醒楽隊眼鏡蛇楽隊零點楽隊臧天朔唐朝楽隊が出演し、1998年でもっとも大きなコンサートとなった。とても好評を博したため、第2回が企画され1999年6月19日には、崔健黒豹楽隊花兒楽隊DD節奏楽隊痩人楽隊がコンサートを開く。本来は、唐朝楽隊も参加の予定で、広告も刷っていたが、コンサート直前に突然解散してしまったため、参加できず。大幅に予算を削られてしまい、参加バンドは少なかった。

●新音楽

 中国では、1989年以降、ロックが反体制の象徴と見られていたため、ロックコンサートを開くのが困難であった。特に、「揺滾(ロック)」の文字に敏感であった文化部から目をそむけさせるために、アーティスト側は「新音楽」という名前をコンサート名にしてロックコンサートだと悟られないようにした。このため、テレビ等の媒体でもロックの言葉は使えず、DJ張有待のラジオ番組「New Rock Magazine」は「新音楽雑誌」、マイケル・ラーンズ・ロックがテレビに出演したときは、“ロック”の中国語訳が“音楽”となっていた。ただ近年、大型コンサートでも地方なら「揺滾」の文字を冠したコンサートをすることができるようになったようだ。

●西北風

 1987年頃から、中国西北部、黄土高原地帯の民謡を現代風にアレンジしたスタイルが大流行。このスタイルを一般に西北風と呼ぶ。力強い歌声が特徴で、崔健の「一無所有」も西北風の代表曲。他には、「山溝溝」(那英等が歌う)、「信天遊」(艾静等が歌う)や映画『紅高梁』の挿入歌が有名。一時期中国歌壇はこのスタイルの曲しか作られなかったが、1980年代末になるとみんなに飽きられ、自然消滅していった。

●第一届百名歌星演唱会(第1回100名スターコンサート)

 1986年5月9日、連合国国際平和年を記念して北京工人体育館でコンサートを開いた。このコンサートには、成方圓・孫國慶・胡月・張薔・付笛聲・屠洪鋼・安冬・韋唯・崔健など、当時の新人アーティスト100人が出演した。そこで100人によって「譲世界充満愛」が歌われた。この曲は、今までの中国に無かった新しいリズムで、現代ポップスに繋がるものと言われたため、のち、ここから現代中国ポップスがスタートしたと言われるようになった。

 また、崔健は同舞台で王迪劉元を従えて、「一無所有」を歌った。この時、中国で初めてロックな曲がコンサート会場で歌われたので、中国ロックの歴史もポップスと同様、1986年から始まったと定義されるようになった。このコンサートは中国音楽界にとって新時代の幕開けとなる瞬間となった。

●[金太]金実況演奏室

 李季によって開かれた中国で最初のロック専門ライブハウス。1991年10月オープン。観客は400人くらい入ることが出来た。以前は、ホテルやバーなどで不定期的にPARTYを開いただけであったが、ここに到り、定期的にPARTYを開けるようになる。『北京雑種』の映画もここで撮影された。しかし、オープニングライブを開いた後、文化局がライブの許可をしなかったため、たった一度のライブでここは閉鎖となった。

●打口帯(ダーコウダイ)

 中国語。普通に市販されているCDやカセットが一部破損しているもの。破損しているのはほぼ洋楽で、なぜ破損しているかといえば、海外で生産されたものに、わざと傷をつけて不良品扱いにし、そのゴミ扱いになったものを中国に流して中国各地で低価格で売るというもの。ゴミ扱いなので値段はとても安く、普通の洋楽カセット・CDは、とても高すぎて手が出せない中国人にとっては、欠かせない物である。最近では、最新のCDでも数ヶ月遅れで入ってくるようになり、世界の動向についていけるようになってきた。

●同一首歌

 2000年元旦から中央電視台で放送されている大型音楽コンサート番組。中国・香港・台湾の歌手のみならず、日本や韓国の歌手も出演した。1回目が大好評であったため、以後、各地方から放送という形で行われた。ロックバンドもバラードや、民間歌謡・流行曲のカバーを演奏することで出演した。のち、その様子がVCDやDVDとなって発売された。

●’98南寧中国揺滾音楽演唱会

 1998年8月30日、広西チワン族自治区・南寧の南寧市広西区体育場で行われたロックコンサート。参加アーティストは、鮑家街43號楽隊馬軍唐朝楽隊何勇張楚清醒楽隊周靱超載楽隊で、当時、馬軍以外はみなアルバムを発売していることからも分かる通り、中国ロック界の大御所が数多く出演したが、主催者である梁健はその収入を全て持ち逃げしてしまったため、アーティスト側には1銭もお金が入らなかったほか、交通費も自己負担であったため、アーティストにとって、まったくの無駄足となったコンサートであった。

●暖場(ヌワンチャン)

 中国語。場所を暖める、つまり(歌手・バンドの)前座のこと。

●発焼唱片(ファーシャオチャンピェン)

 中国語。発焼とは、Hi-Fiのことで、直訳すればHi-Fi(High fidelity)アルバム。日本語ではこういう呼び方はしないが、つまり演奏からレコーディングまで、全てによって最高の条件による、高音質音楽CDのこと。一般にはロックアルバムでは発焼唱片が発売されることはない。一部のポップスアルバムや、民族音楽などのアルバムで発売されることがあり、その時はケースも豪華な作りで、CDの値段も、通常の2倍から3培くらいの値段設定となっていることが多い。ただ、その発焼唱片と称して販売している偽物も数多く出回っていることも確かである。

●中央音楽学院

 中国音楽学校の最高学府。ここの出身だというだけで、一目置かれる存在になる。出身者として代表的な人物は、鮑家街43號楽隊呉桐など。他にもここの大学出身のミュージシャンは多い。特に鮑家街43號楽隊は、中央音楽学院出身を全面にアピールした。バンド名の‘鮑家街43號’自体、中央音楽学院の住所である。

●『中国大揺滾−−献給国際減災十年

 1992年9月18日、国際減災十年委員会主催により、1992年の国際減災日を記念したアートフィルム『孩子 太陽 世界』を河北省秦皇島の海の上に作られた特設舞台で撮影した。この撮影に参加した7バンドは記念に曲をレコーディングした。その音源を1993年に揚子江音像出版社がカセットとして販売したものがこのアルバムである。レコーディングした音源について、バンド側との契約では、テレビでのみ使用することだったため、それに憤慨したバンド側がレコード会社に対して訴えを起こし、間もなくしてこのアルバムは発売中止となった。アルバム収録バンドは黒豹楽隊做夢楽隊眼鏡蛇女子楽隊1989楽隊唐朝楽隊呼吸楽隊超載楽隊

●中国揺滾的光輝道路大型揺滾音楽節

 2004年8月6・7・8日、寧夏回族自治区銀川市の賀蘭山の麓で行われた大型野外ロックコンサート。このコンサートには、第一世代の崔健黒豹楽隊唐朝楽隊何勇王勇、第二世代の高旗&超載楽隊常寛張楚眼鏡蛇楽隊、第三世代の王磊汪峰與楽隊・子曰楽隊痩人楽隊羅[王奇]、第四世代の二手[王攵]瑰楽隊左小祖咒布衣楽隊蘇陽楽隊の18組が出演し、約12万人強の観衆を動員した。何勇羅[王奇]のロック界復帰張楚の久々のコンサート出演など、話題に欠かさなく、これだけの豪華メンバーで、数多くの観衆が集まったコンサートは初めてである。(関連サイト→“中国揺滾的光輝道路”大型音楽節

●中国揺滾楽勢力コンサート

 1994年12月17日、香港紅[石勘]体育館(香港コロシアム)で行われた魔岩文化(MAGIC STONE)レーベル所属アーティストによるロックコンサート。竇唯張楚何勇唐朝楽隊が参加し、中国ロックを海外に知らしめることとなった。のち、ライブアルバム・VCD・ビデオが発売され、このライブビデオは、唐朝楽隊張炬の生前最後の映像ともなった。

●南北対立

 中国のロックは北京で誕生し、北京で育った。現在もその傾向があり、発売されるロックアルバムの8割は北京からと言っても過言ではない。地方の多くのバンドも有名になりたいがために、まず上京してくる。しかし、その北京一辺倒の世界に疑問を感じ、反抗してくるアーティストも出現し、地方都市同士で連帯して北京陣営を包囲する動きも現れた。反北京陣営の代表者としては、江西省の省都・南昌で活動する盤古(のち広州に拠点を移す)。

 南北対立の北は北京のみで、東北三省・天津等は含まれない。つまり、北京とそれ以外の地域(特に南方)の対立である。

●音楽公社

 南方の音楽団体。1993年6月、広州で“追億似水流年音楽会”を開き、10月には“分享生活音楽会”を開くなど、大規模なコンサートを主催して、90年代前半の南方音楽の発展に貢献した。6月のコンサートは、王磊が初めて出演したコンサートでもある。この音楽公社も設立から1年半後には消滅し、最後に残ったのは王磊ただ1人であった。

●PARTY

 アンダーグラウンドでのロックライブのこと。中国では普通にロックライブを開くことが出来なかったため、PARTYと称してライブを始めたことがその名称の由来である。初期のPARTYは、崔健が1986年に馬克西姆餐庁、1987年に崑崙飯店や美術学院で開いたものであると言われている。この当時はロック自体知られていなかったため、ライブに関しては騒音という問題以外、特に規制は無かったようであるが、1989年に天安門事件が起こると、ロックに対する風当たりは強く、ロックアーティストはPARTY以外の活動場所を失ってしまった。1990年代末になると、ライブに関する規制が減り、毎週のようにライブを行うようになった。そのため、定期ライブはPARTYとは言わなくなったが、現在でもPARTYの名称は、複数のバンドがライブを行う時に際して、たまに使われている。ちなみに、中国語では「派対」。

●北京新声(BEIJING NEW VOICE)

 音楽・生活習慣・服装等、最新の流行を取り入れ、時代の最先端を行くアーティスト達のこと。既存のハードロック・ヘビーメタルバンドと対比させるために作られた言葉。主に、摩登天空所属アーティストが多い。1999年には、『北京新声』という本が出版された。

●魔岩三傑

 1994年に滾石唱片の魔岩文化(MAGIC STONE)レーベルから同時発売された竇唯張楚何勇を総称して言う。魔岩文化がアルバム発売に向けてプロモーションを行っていた時、そのように呼んでいたことに起因する。実際、彼らのアルバムはすべてヒットし、三傑に恥じないだけの活躍をした。

●麻木的揺滾

 憤怒楽評論人(憤怒音楽評論家)の王曉峰が、1996年2月27日、新聞『北京青年報』に小偉というペンネームで「麻木的揺滾」(麻痺したロック)と題した文章を発表した。内容は1995・1996年に発売した中国ロックアルバムの批判で、特に黒豹楽隊3rdアルバムに対する批判が激しかった。これに怒った黒豹楽隊は、1996年3月15日に新聞『音楽生活報』に反論文を発表したほか、批判を受けたロックバンドや所属レコード会社が口々に王曉峰を批判した。

−「麻木的揺滾」の文章から、黒豹楽隊のアルバム批判の部分を抄訳−
「(
2ndアルバムを発売してから)この2年間、体についた肉以外、ほとんど変化がない。(3rdアルバムは)最初から最後まで何を歌いたいのかよく分からない。ただ、黒豹楽隊のこのような歌は本当にもったいない、もし4大天王(ジャッキー・チュン、アンディ・ラウ、アーロン・コック、レオン・ライ)のうちの1人が歌ったら、良くなるかも知れないのに・・・」

●無聊軍隊(WULIAO CONTINGENT)

 1998年頃から北京のライブハウスSCREAM CLUB([ロ豪]叫倶楽部)で活動していたパンクバンド、ANARCHY BOYS腦濁69反光鏡の4バンドの総称。名付け親は、北京語言大学のイタリア人留学生であるTINA(女性)が、1997年に北京のアンダーグラウンドパンク同人誌を発行したことに始まる。そのうち、この名称はSCREAM CLUBの名とともに有名になっていき、1999年には、北京京文音像公司傘下の[ロ豪]叫唱片からアルバムを発売した時に、『無聊軍隊』と名付けたことで、この名称は一躍全国区になった。

●迷笛音楽節

 中国最大規模の野外ロックフェスティバル。2000年5月から、北京の迷笛(MIDI)音楽学校で開かれていた。参加バンドは迷笛音楽学校出身者が中心であるが、卒業者の中には、全国に名前の知れ渡るほど活躍しているバンドもいるほか、期待の新人が数多く出演するため、多くのロックファンが見学のために集まってくる。2001年5月、2002年5月にも開かれ、大盛況となった。2000年と2001年は室内で行われたが、2002年は野外の運動場で行われた。普段の迷笛音楽節以外に、2002年12月には、北京の農業展覧館2号館で迷笛音楽季が開かれた。この時、本来は1月半ばまでライブが行われるはずであったが、公安からの指示により、12月15日から25日までに短縮されたほか、17時を絶対に過ぎてはいけないこととなった。2003年5月も4日間かけて行われる予定であったが、SARSのため、10月1日から3日に延期となってしまった。2004年は5月1日から4日まで開かれる予定であったが、前もって大々的に宣伝し、相当な入場数が見込まれ、学校側のキャパを超えているとの理由で、4月28日早朝、公安局から中止の命令を受けてしまった。そして場所を変更して10月1日から、北京国際雕塑公園で4日まで開かれたが、2日目の時点で周りの住民から騒音クレームが来たため、3・4日は時間を大幅短縮して行われた。2005年5月14・15日には、迷笛音楽学校の野外運動場でジャズフェスティバルが開かれた。2005年10月1日から4日までは、北京海淀公園で行われ、また4日間で100元の入場料を取り、商業的な道を進むようになった。また、2005年から迷笛音楽節のサブステージでMINI MIDIも開かれたが、これは中国初の野外実験音楽フェスティバルである。MINI MIDIは2008年、メインステージとは分離され、独自で開催した。そのため、メインステージの日程とは異なる5月1日から3日までであった。メインステージは、5月に開くことができず、10月に延期となったが、会場や開催日が何度も変更となり、開催数日前に迷笛音楽学校内に変更となり、結局開催は10月1日から5日まえの間だった。出演バンドも大幅に縮小された。2009年は、5月に江蘇省鎮江で行われ、初めて北京以外の地で開催となった。

●譲世界充満愛

 1985年1月にアメリカで45人のロックミュージシャンが集まり、チャリティコンサートを開いた。その中で、「WE ARE THE WORLD(中国語:四海一心)」が歌われ、この模様が世界中で放送された。中国では放送されなかったが、音楽関係者達にこの話が伝わる。翌年の1986年は、連合国国際平和年であったため、コンサートを開き、また中国版「WE ARE THE WORLD」を作ろうという話になった。そこで、1986年に東方歌舞団プロデュース、陳哲作詞、郭峰等作曲により、「譲世界充満愛」が製作され、コンサートの主題歌となった。1986年5月9日に第一届百名歌星演唱会が開かれ、成方圓・孫國慶・胡月・張薔・付笛聲・屠洪鋼・安冬・韋唯・崔健ら100人によって歌われた。いままでの中国音楽にないメロディが新時代の幕開けを予感させ、この曲が中国ポップスの幕開け的存在の曲とされ、中国ポップスが1986年に誕生したと定義されるきっかけとなった。

●流行(りゅうこう)

 中国の初期のロックバンドは、海外のハードロックバンドに影響されて、始めは彼らのコピーを、次第に自分達でオリジナルの曲を発表していった。1994年にニルバーナのカート・コバーンが死ぬと、中国ではグランジが流行。カート・コバーンは神様的存在になる。1997年にはブリティッシュロックを取り入れた清醒楽隊のアルバムが発売されたように、ブリティッシュロックが注目を浴びたが、主流にはなりきれず、1998年頃からは、パンクが主流となる。2000年は、ハードコアが流行し始め、多くのパンクバンドがハードコアバンドへと変貌した。

 

MENU