張炬 ZHANG JU

北京語:ジャンジュウ

 北京で活動するベーシスト。湖南人。土家族。1969年5月17日生まれ。身長182cm。中学生の時は、走り高跳びの大会で全国2位となる。卒業後はギターを勉強したが、のちベースを弾き始める。先生は、曹平であった。17歳の時、丁武と出会う。1987年夏には高旗曹平とともにバンドを結成するが、年末には解散してしまった。

 1988年には、丁武(Vo&G)・アメリカ華僑KAISER KUO(郭怡廣)(G)・アメリカ人SARPO(薩保)(Dr)とともに唐朝楽隊を結成したが、1989年6月には解散となる。その後、大連に行ったが、間もなく北京に戻り、1989年末、唐朝楽隊を再結成する。1990年2月、北京首都体育館で行われた“90現代音楽演唱会”に唐朝楽隊のメンバーとして参加し、「粉霧」を演奏した際ボーカルを務めた。

 1992年には、唐朝楽隊での活動の旁ら、超載楽隊のベースも務めた。

 唐朝楽隊のメンバーとして、1stアルバムを発売したり、各地で大型コンサートを行うなど、バンドとして頂点を極めたが、1995年5月11日に、バイクに乗っていたところ、車に追突し死亡。享年25歳。

 1980年代からロック音楽に関わってきた人物の中では、もっとも若く、多くのロッカーから弟にように可愛がられていた。彼の死は、唐朝楽隊だけに止まらず、中国ロック界において多大なる損失であった。中国ロック界初の英雄の死である。葬式には、多くのロッカー達が集まり、大々的に行われた。

唐朝のメンバーとして、1994年12月17日、香港で行われた“中国揺滾楽勢力”コンサートに参加した

 彼の死後も唐朝楽隊は活動をし続けているが、精彩がなくなっている。それは、唐朝楽隊でのリーダーは丁武であるが、ムードメーカーは張炬であり、彼が積極的にバンドを引っ張ってきた。今の唐朝楽隊には張炬に相当する人物がいない。

 同時期から活動してきた黒豹楽隊は、彼のために「放心走[ロ巴]」を歌い、許巍は「両天」を彼に捧げ、老五は「延続的夢」を歌ったほか、1997年には『再見 張炬』という追悼アルバムが発売され、そこには名立たるロッカー達が思いを込めて創作した曲が収録された。また、北京にあったライブハウスKEEP IN TOUCH(保持聯絡)には、事故を起こしたときのバイクが飾ってあり、いつでも彼を偲ぶことができた。

 彼の死後も彼を懐かしむ人は多く、北京のライブハウスではしばらくの間、毎年5月に追悼ライブを行っていた。

 2005年5月になり、張炬を偲んで製作されたオムニバスアルバム『礼物』が発売となった。

KEEP IN TOUCHに置いてあった愛用のバイク
(1998年、YIREN撮影)

 

●ソロ発表曲

曲名 アルバム名 発行年 備考
張炬生前談話 再見 張炬 1997 1995年4月11日張有待のラジオ番組「人人可以弾吉它」でのインタビュー
再見 張炬 1997 1995年4月11日張有待のラジオ番組「人人可以弾吉它」でのインタビュー
無題 再見 張炬 1997 1995年4月11日張有待のラジオ番組「人人可以弾吉它」より

 

●参加アルバム(→唐朝楽隊

歌手(楽隊)名 曲名 アルバム名 発行年 参加形態 備考
超載楽隊 低下頭是人間 中国大揺滾 - 献給国際減災十年 1993/1/8 サポートベース  
合唱 希望 太陽 世界 中国大揺滾 - 献給国際減災十年 1993/1/8 ボーカル(複数で)  
陳勁 紅色天空 校園民謡A 1983-1994 1994 ベース  
面孔楽隊   火的本能 1995 ベース 10曲参加▽張炬の遺作。このアルバムをレコーディング中に亡くなった

 

●出演

出演媒体 曲名 映像名 発行年 参加形態 備考
テレビ番組   中国新音楽的N個瞬間 2005/9 出演者の語りの中で取り上げられている ▼DVDあり

 

●関連サイト(→唐朝楽隊

東北風第55期 中国揺滾記憶 傾听」(中国語GB)
中国の多くの文化人と交流を持つ、毛丹青氏が書いている。上記はこの日本語文。

紀念張炬」(中国語GB)
張炬の部屋の写真などがある。

 

MENU