侯牧人 HOU MUREN
北京語:ホームーレン
1952年、上海にて生まれる。5歳の時にピアノを習いはじめる。1962年、上海音楽学院附小に入学。小学校6年の時、上海に一足先に文化大革命の波がやってきたため、専攻を笛にし、中学は重点中学に入学した。1年ほど勉強した頃、文革が全国的に広まり、侯牧人もピアノの勉強を辞めることとなった。そして、人民公社の生産隊に入る。1969年には、吉林省に移る。生産隊の仲間の1人が、バイオリンを持ってきていたため、その時からバイオリンを勉強し始める。この頃、アコーディオンや、ハーモニカ、笛などを持ってきた仲間とともに、当時演奏禁止曲であった、「外国名歌200首」を演奏して楽しんでいた。 |
1974年、長春市歌舞団に合格し、そこでピアノを担当することになった。その後、工場で働いたり、音楽学校を受験したりして、いくつか仕事や勉強先を買えたりしたが、1979年夏に、中央歌舞団のピアノ伴奏の担当となる。 1982年には、男声四重唱を結成し、中国の民間歌謡を中心に歌っていた。また、練習中には、音楽にJAZZドラムの必要性を感じたが買えなかったため、[イ三]兒もこのドラムで初めてドラムを練習1年かけて自分で製作する。し始めた。このドラムは、のちレコーディングでも使われ、北京のコンサート上での最初のJAZZけ、3枚のアルバムをレコーディングしたが、追い求めドラムとなる。2年ほど活動を続る音楽とは違ったため、解散。 |
同じ頃、陳哲を紹介してもらい、彼に詞を書いてもらうようになる。1987年には、アルバム製作を試みる。その中の1曲、「留下油灯光」は蔚華や程琳を始め、多くの人が歌った。一時期は、黒豹楽隊の1stの海賊盤にも挿入され、多くの人がこの曲を黒豹楽隊の曲と勘違いした。 1992年には、ソロコンサートを開く。このコンサートの後には、アルバム『我愛[イ尓]中国』を発売した。のち、『紅色揺滾』の製作にも参加する。その後は、陳哲のCZ MUSICのアルバム製作に参加するくらいで、表立った歌手活動はしなくなったようだ。 その後、王秀娟の1stアルバムのプロデュースを行った。 最近の活動状況は不明。 |
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書籍『揺滾夢尋』 |
●アルバム
タイトル | 出版 | 発行 | 製作 | 発行年 | 品番 | 地域 |
我愛[イ尓]中国 | 情報求む! | 1993夏 | (CT版) | 中国 |
●ソロ発表曲
曲名 | アルバム名 | 発行年 | 備考 |
兄弟 | 中国揺滾 | 1995 | LD版 |
留下油灯光 | 中国揺滾 | 1995 | LD版 |
我們走在大路上 | 中国揺滾 | 1995 | LD版 |
社員都是向陽花 | 中国揺滾 | 1995 | クレジットは王寧・侯牧人▼LD版 |
行程暗示 | 成長状態001 | 1998 | 『神揺第二章・・別再躱蔵』には収録されていない |
●参加アルバム
歌手(楽隊)名 | 曲名 | アルバム名 | 発行年 | 参加形態 | 備考 |
張楚 | 一顆不肯媚俗的心 | 1993 | 編曲 | 全曲参加 | |
艾敬 | 流浪的燕子 | 我的1997 | 1992/12 | 作曲 | |
艾在旅途 | 2006/10 | 作曲 | |||
那英 | 油燈光 | 中国原創十年 | 1995 | 作曲 | |
李連勝 | 流浪漢与女孩 | 1996 | 編曲、MIDI | 全曲参加 | |
金徳哲 | 半夢 | 1996 | 音楽支持、編曲、MIDI等 | 全曲参加▽『夢幻田園』も | |
蔚華 | 留下油灯光 | 女人的故事 | 1997 | 作曲 | |
オムニバス | 五十憶・我們(一) | 1988 | 作曲、ボーカル | 全曲参加 | |
オムニバス | 五十憶・我們(二) | 1988 | 作曲 | 全曲参加 | |
オムニバス | 第十一届亜運会歌曲 亜洲雄風 | 1990 | ミュージックディレクター(徐沛東と)、作曲 | 全曲参加 | |
オムニバス | 巨星新奉献 | 1991? | 楽器編成 | 全曲参加 | |
オムニバス | 黒月亮A1 | 1991 | レコーディングディレクター(複数で)、ボーカル、詞曲、ドラム、キーボード | 全曲参加 | |
オムニバス | 学習雷鋒好榜様 | 北京REGGAE | 1991 | 編曲 | |
オムニバス | 紅色揺滾 | 1992 | プロデューサー、詞曲、ボーカル | 全曲参加 | |
オムニバス | 黒月亮A2 | 1997 | 詞曲、ボーカル、コーラス(複数で) | 7曲参加 | |
オムニバス | 夢☆峡谷 | 1998 | 編曲、MIDI、ボーカル等 | 全曲参加 |
●関連サイト