青銅器楽隊 QINGTONGQI
北京語:チントンチー
中国初の大学生ロックバンド。1988年、北京で結成となった。最初のメンバーは、高曉松(Dr)・戴濤(リズムG)・蒋濤(B)・田京山(Vo&G)・趙偉(Key)・徐濤(マネージャー)。のち、田京山が脱退、蒋濤がリズムギターを弾き、1989年に加入した許寧峰がベースを担当する。この頃の音楽スタイルは、北京で流行していたハードロックであった。 1990年、五四青年節の時、呼吸楽隊・黒豹楽隊と共に北京画帰国後学院でPARTYを開く。初めてライブを行ったが、準備不足で満足の行くプレーが出来ず、失敗となってしまった。その苦い経験から、夏休みの間はずっと練習を行っていた。 この間に、老狼(Vo)がと陸費漢強(Dr)が加入する。しかし、間もなくして高曉松と老狼は脱退し、ライブを行うために、南方へ行ってしまう。同年末になり、老狼は再びバンドに参加した。 |
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1stアルバムのプロモ用の写真 |
1991年元旦になり、再びライブを行い、今度は成功を収める。この後から、1992年5月まで多くのPARTYに参加し、面孔楽隊・毒刺楽隊(張楚)とともに新世代のロックバンドとして注目を浴びた。この頃のライブのレパートリーに入っていた「荒冢」は、のち零點楽隊がカバーした。また、メンバーに白方林(G)が加入した。 バンド活動は順調であったが、1991年末ごろには、戴濤以外のメンバーは全て総入れ替えとなり、この時は楊海華(Vo)・戴濤(G)・王炳軍(B)・李威(Dr)・宋向陽(G)であった。この頃のバンドスタイルは、ヘビーメタル。代表作品は、「拳養」や「小鍋是鉄打的」など。1992年10月、楊海華・王炳軍・李威・譚平(元・焦點楽隊)・zhai強(元・焦點楽隊)は、青銅器楽隊をまた1から始めようと考え、[イ瓦]族楽隊と名前を変更した。いつの頃か分からないが、艾傑(B)が加入した時期もあった。 |
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1stアルバムのプロモ用の写真 |
1995年末、青銅器楽隊のオリジナルメンバーであった、田京山(Vo&G)・趙偉(Key)・戴濤(G)・蒋濤(Vo&B)・徐濤(マネージャー)らは再結成し、活動を再開する。もちろん、[イ瓦]族楽隊とはまったく別のバンドとして復活した。 1997年になり、戴濤は脱退するが、なおバンドは活動を継続し、1997年半ばからレコーディングを開始、1999年8月に全ての曲のレコーディングが終了した。 2000年9月、1stアルバムが発売となった。10月8日には、北京工人体育場で行われた原創反盗維権大型演唱会に参加した。11月4日、北京の火山DISCOでアルバム発売記念ライブを行った。2000年12月から2001年1月にかけて、孟京輝の話劇『臭虫』の音楽を創作し、公演の際に伴奏も行った。この頃のメンバーは、田京山(Vo&G)・趙偉(Key)・戴濤(G)・蒋濤(Vo&B)・孟磊(Dr)・徐濤(マネージャー)。 2002年公開の映画『像鶏毛一様飛』では友情出演をしている。 艾傑はのち、輕軌楽隊を結成した。孟磊は2005年6月、THE LAST CHANCE OF YOUTH楽隊の再結成に参加した。 |
●アルバム
タイトル | 出版 | 発行 | 制作 | 発行年 | 品番 | 地域 |
青銅 | 国際文化交流音像出版社、正大国際音楽製作中心 | 青銅文化 | 2000/9 | IAM 00090,ISRC CN-A26-00-390-00/A・J6(CT版) | 中国 |
●DEMO、非売品
タイトル | 出版 | 発行 | 製作 | 発行年 | 品番 | 地域 |
青銅 | 国際文化交流音像出版社 | 青銅文化 | 2000 | 無し(CD版) | 中国 |
●ソロ発表曲
曲名 | アルバム名 | 発行年 | 備考 |
弗洛伊徳弟子 | 原創反盗維権大型演唱会 | 2000 | ライブ▼VCD |
中国語ジャーナル 2001年1月号 | 2001/5 | 1stアルバムと同じ |
●参加アルバム(→蒼蠅楽隊)
歌手(楽隊)名 | 曲名 | アルバム名 | 発行年 | 参加形態 | 備考 |
オムニバス | 共産主義也有愛情的問題 | 戯劇原声 | 2008 | 作曲 | |
オムニバス | 毎一人都想上天堂 | 戯劇原声 | 2008 | 作曲 |
●出演
出演媒体 | 曲名 | 映像名 | 発行年 | 参加形態 | 備考 |
映画 | 像鶏毛一様飛 | 2002 | 友情出演 | ▼DVDあり |
●関連サイト
「青銅器楽隊」(中国語GB)(消滅?)
オフィシャルサイト。詳細なプロフィールほか、音源をダウンロードすることができる。