竇唯

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竇唯
Douwei 53.jpg
基本情報
中国語名(簡体字) 窦唯
中国語名(繁体字) 竇唯
拼音 Dou Wei
発音転記 ドウ ウエイ
出生日 1969年10月14日
学歴 北京市第五中学
出身地 北京市
担当楽器 ボーカルギタードラムピアノ
ジャンル ハードロック黒豹楽隊時)・オルタナティブ即興音楽実験音楽メタル
職業 プロダクション経営者
活動期間 1987年 -
メンバー 竇唯
1989年、自宅での写真。(写真提供:周俭、优蝶
1stアルバムの時の写真。
1998年9月11日、北京市嚎叫倶楽部でジャムっている竇唯。他には、謳歌何勇がいた。(撮影:YIREN
1999年、譯楽隊のライブにて。
2006年9月14日、東岸JAZZ CAFEでのライブ。(撮影・写真提供:呉楠)
2003年7月13日、上海市新天地ARKで行なわれた不一定楽隊のライブより。(撮影:YIREN

竇唯(ドウ ウエイ、Dou Wei、1969年10月14日 -)は、北京市で活動しているアーティスト。黒豹楽隊ボーカリストとして有名になり、ソロ活動を開始してからは、中国を代表するロックアーティストの1人として、アルバムを立て続けに発表している。

メンバー

  • 竇唯

過去に在籍したメンバー

経歴

黒豹楽隊・做夢楽隊時代

1982年、北京市北京市第五中学に入学する。1983年、欧米の音楽を聴くようになる。この頃からロックに興味を持ちはじめ、1984年には、ギターを独学で勉強する。1985年、高校に入学し、精神病看護について勉強する。1987年、学校を辞め、ライブを行なうようになる。

1988年、黒豹楽隊ボーカルとして加入する。黒豹楽隊の大部分の作詞作曲を手がけ、黒豹楽隊にとって、欠かせない人物となるが、1991年10月、諸処の事情により脱退する。

脱退から2ヶ月後の12月には做夢楽隊を結成し、そして1992年の中ごろには波麗佳音公司とソロ契約し、アルバム制作を進めていたが、1992年10月に做夢楽隊は解散してしまう。

ソロ活動の開始

バンド解散と同時にソロ活動を始め、1993年初には波麗佳音公司との契約を解約し、魔岩唱片と契約する。

1994年6月、魔岩文化レーベルからソロデビューアルバム『黒夢』を発売し、大ヒットとなる。同レーベルからアルバムを発売した張楚何勇とともに魔岩三傑と称される。12月17日には、香港で行なわれた揺滾中国楽勢力演唱会に参加し、国内外で中国ロック界を代表するロックアーティストの1人として認められるようになった。

1995年10月には、2ndアルバム『艶陽天』を発売する。翌年には、王菲(フェイ・ウォン)と結婚する。1997年1月には、竇靖童(女性)が誕生する。

音楽スタイルの変化

1998年11月、3rdアルバム『山河水』が発売となった。

1999年3月になり、王菲と離婚する。同じ頃、竇唯は譯楽隊の練習風景を見学、そこで意気投合し、メンバーに加わる。そして久しぶりに公の場でライブ活動を始めた。また、不一定楽隊を結成し、ドラムを担当する。10月には、譯楽隊との共同制作のアルバム『幻聴』が発売となった。また、張亜東と共に映画『我最中意的雪天』の音楽を担当する。

山河水』から音楽スタイルの変化は明らかであったが、ボーカルを入れた曲作りではなく、ボーカルを必要としない、インストゥルメンタル曲を創作するようになっていった。これまで以上に竇唯の内面的なものを映し出したスタイルになっていったため、一般受けするものでなかった。そのため、所属レコード会社の滾石唱片は2000年にレコーディングしたアルバム『雨吁』が商業的ではないと考え、発売までには至らなかった。

2001年半ば、譯楽隊を脱退する。その理由は、譯楽隊が次第にエレクトロニカスタイルへ変化しているのに対し、竇唯は音楽スタイルを変化させたくなかったためである。

2002年、暮良文王を結成した。やがて、滾石唱片との契約が終了した。

2004年8月、アルバム『八段錦』が発売となった。この頃は上海声像出版社より、立て続けに竇唯及び竇唯が参加したアルバムのCDが出版されており、とある評論家は、季刊『竇唯』と称したほどであった。ただ、竇唯というネームバリューが後押しして発売に至っていたのであって、決してアルバムが売れていたというわけではなかった。

2005年、密かに黒豹楽隊の練習に3回参加したが、最終的に再加入することはなかった。

2006年5月、新聞社襲撃事件を起こして拘置所へ入ることになり、国内外のマスコミからも注目を浴びるほどある意味大きな注目を浴びた。8月、譯楽隊と2000年にレコーディングしたアルバム『雨吁』がようやく発売となった。同年後半、不一様楽隊を結成した。

2008年、樹音楽と契約した。同年、西山老妖楽隊に加入し、ドラムを担当した。7月5日、上海市上海大舞台で行なわれた樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜昕2008上海演唱会に出演した。この時、譯楽隊以来、久々に歌を歌ったほか、音楽スタイルもエレクトロニカダンスラップなどを融合させたスタイルとなり、評判を博した。7月5日、不一様楽隊・竇唯・不一定楽隊名義の5枚のアルバムが1つとなったアルバムボックス『五音環楽』が発売となった。9月、竇唯が全ての音楽を担当した映画のサウンドトラック『《李米的猜想》電影原声専輯』が発売となった。

2009年、地三鮮楽隊を結成した。

2010年4月、竇唯音楽工作室を設立した。

2012年6月、アルバム『2012拍』が発売となった。10月13日、アルバム『上下』が発表となった。

2013年10月10日、アルバム『殃金咒』が発売となった。

2017年10月、新曲「重边魔域」を発表したが、メタルスタイルで、ネット上で大評判となった。

竇唯の音楽に対する評価

黒豹楽隊が中国最高のロックバンドとなったきっかけは、ほぼ竇唯が手掛けた曲のおかげと言っても過言ではないほどである。黒豹楽隊がこれまで発表してきたアルバムが竇唯が在籍していた1stアルバムを越えられないのはこのためである。

ソロ活動を開始してから発表した『黒夢』や『艶陽天』も、これまでの中国ロックでは考えられないような高次元の作品が収録されており、売上げと評価の面から大好評を博し、「天才」とも言われたほどであった。

その後転機となったのは、3rdアルバムからであるが、これまでの竇唯の個性の一つであった独特の歌声を曲に入れることを排除し、楽器演奏のみで構成するような曲作りとなった。ちょうど結婚相手の王菲(フェイ・ウォン)との関係が悪化し、離婚に至った時期と重なる。香港を代表する歌手としてトップに君臨していた王菲の結婚相手として、マスコミからいつも追いかけられたことで、対人関係が嫌になり、どんどん殻にこもって内向的になり、その考えが音楽にも出たためである。譯楽隊と活動を共にしていた時期はボーカルを担当していたが、それほど長い時間ではなく、再び竇唯の音楽は更に内向的になっていった。

竇唯の音楽ファンやマスコミの大半がソロ活動を開始して間もないころの竇唯の音楽を求めていたこともあり、ファンは次第に離れていき、多い時は1年に数枚もアルバムを発表していた時期もあったが、いい評価はされなかった。ただ、コアなファンはどんな音楽に変化しても竇唯の音楽が好きであり、アルバムが出るたびに歓喜している。中国ロック界を代表するアーティストにも関わらず、音楽市場にまったく左右されず、ひたすら自分の道を進む姿勢が好まれているのである。

近年では、ボーカルを入れた曲作りを試し始め、「竇唯が歌った」ということで、再びファンやマスコミから大注目を浴びた。どのようなスタイルに変化しようと、「天才」竇唯の音楽にはみなが注目しているのである。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

シングル

映像作品

オリジナル・サウンドトラック

ベスト・アルバム

アルバム・ボックス

デモテープ

コラボレーション・アルバム

ソロ発表曲 

テンプレート:Solo List 50

参加アルバム 

テンプレート:Participation List 100

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考
映画北京雑種1993年制作做夢楽隊のメンバーとして演奏中国では公開されず香港で公開
地下映画後革命時代2005/2ライブなどクレジットは竇唯楽隊▼DVDあり
テレビ番組中国新音楽的N個瞬間2005/9出演者の語りの中で取り上げられている▼DVDあり
CD楊晨月光傾城2008/11/15インタビュー2007年7月、首届鄂尓多斯草原揺滾音楽会前に録音

主要なライブ・コンサート

外部リンク