「太陽同伴現代城市民謡演唱組」の版間の差分
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初ライブを行なった後、[[張広天]]が反動者の疑いで公安の取り調べを受け、その後、[[江蘇省]][[塩城市]][[大豊県]]の労教農場に送り込まれてしまい、バンド活動を長期に渡って休止せざるを得なくなった。 | 初ライブを行なった後、[[張広天]]が反動者の疑いで公安の取り調べを受け、その後、[[江蘇省]][[塩城市]][[大豊県]]の労教農場に送り込まれてしまい、バンド活動を長期に渡って休止せざるを得なくなった。 | ||
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やがて、[[ラジオ]]の番組「星期広播音楽会」でライブの様子が放送されたが、[[張広天]]は労教農場でその[[ラジオ]]番組を聴いていた。 | やがて、[[ラジオ]]の番組「星期広播音楽会」でライブの様子が放送されたが、[[張広天]]は労教農場でその[[ラジオ]]番組を聴いていた。 |
2012年1月30日 (月) 04:43時点における版
太陽同伴現代城市民謡演唱組 | |
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基本情報 | |
中国語名(簡体字) | 太阳同伴现代城市民谣演唱组 |
中国語名(繁体字) | 太陽同伴現代城市民謠演唱組 |
拼音 | Taiyangtongbanxiandaichengshiminyaoyanchangzu |
発音転記 | タイヤントォンバヌシエヌダイチョンシミヌヤオイェヌチャンズゥ |
別名 | 太陽同伴演唱組 |
出身地 | 上海市 |
ジャンル | ポップ・ロック・シティーフォーク |
活動期間 | 1985年 - 1990年 |
影響 | Bob Dylan・John Lennon・Carpenters・The Beatles・羅大佑・斉秦 |
メンバー |
葉亏夫 張広天 |
太陽同伴現代城市民謡演唱組(タイヤントォンバヌシエヌダイチョンシミヌヤオイェヌチャンズゥ、Taiyangtongbanxiandaichengshiminyaoyanchangzu)は、1980年代後半、上海市で活動していたバンド。
メンバー
- 葉亏夫(戴立新) ボーカル & リズムギター & 作詞(1985年 - 1990年) -- リーダー。再見創作組から活動。
- 張広天 作曲(1985年 - 1990年) -- 再見創作組から活動。1985年末から1989年頃までは参加できず。
- 崔駿 ボーカル
- 周紫峰 リードギター
- 鄭南 ベース
- 印悦 キーボード -- 女性。
- 王蘭 バックボーカル
- 湯 バックボーカル
- 劉海峰 -- のち、月蝕楽隊を結成し、ボーカルを担当した。
経歴
再見創作組の別名である。当初はメンバーは葉亏夫が作詞、張広天が作曲を行なうスタイルを取っていた。それ以外のメンバーはいろいろと交代となっている。バンドと言っても、詩を読んだり、ロックを演奏したり、フォークを演奏したり、当時入手や聴くことができた本や音楽によって変化していた。創作した曲は、理想主義的な子供っぽい曲(誕生日のお祝いの歌など)から、社会現実を見つめた曲(スペースシャトル・チャレンジャー乗組員に捧げる歌など)まで、幅広かった。音楽は簡単で、きれいなメロディで、歌詞も分かり易いものにしたが、パワーに欠けていたが、そのパワーを追求する事もなかった。
初ライブを行なった後、張広天が反動者の疑いで公安の取り調べを受け、その後、江蘇省塩城市大豊県の労教農場に送り込まれてしまい、バンド活動を長期に渡って休止せざるを得なくなった。
1989年、復旦大学と上海交通大学でライブを行なった。ボーカルは複数の人が担当していた。このどちらかのライブで演奏した曲は、「嫁给美国人的姑娘」、「科科的等待」、「勃拉姆斯」、「遥想」など。
やがて、ラジオの番組「星期広播音楽会」でライブの様子が放送されたが、張広天は労教農場でそのラジオ番組を聴いていた。
張広天がバンドに復帰してから間もなくして、アルバム発売の話が持ち上がり、上海音像公司のスタジオでレコーディングしたが、結局発売には至らなかった。
結成当初から1990年頃までの間に、主要メンバーである葉亏夫と張広天の音楽スタイルも変化し、結成当初のメンバーも脱退してしまったこともあり、バンド名を重点工程楽隊と改名した。