「竇唯」の版間の差分

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== 経歴 ==
 
== 経歴 ==
  
1982年、北京市第五中学に入学する。1983年、欧米の音楽を聴くようになる。この頃からロックに興味を持ちはじめ、1984年には、ギターを独学で勉強する。1985年、高校に入学し、精神病看護について勉強する。1987年、学校を辞め、ライブを行うようになる。
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1982年、[[北京市]]の[[北京市第五中学]]に入学する。1983年、欧米の音楽を聴くようになる。この頃からロックに興味を持ちはじめ、1984年には、[[ギター]]を独学で勉強する。1985年、高校に入学し、精神病看護について勉強する。1987年、学校を辞め、ライブを行なうようになる。
 1988年、黒豹楽隊にボーカルとして加入する。黒豹楽隊の大部分の詞曲を手がけ、黒豹楽隊にとって、欠かせない人物となるが、1991年10月、諸処の事情により脱退する。
 
  
 脱退から2ヶ月後の12月には做夢楽隊を結成し、そして1992年の中ごろには波麗佳音公司とソロ契約し、アルバム製作を進めていたが、1992年10月に做夢楽隊は解散してしまう。
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1988年、[[黒豹楽隊]]に[[ボーカル]]として加入する。[[黒豹楽隊]]の大部分の作詞作曲を手がけ、[[黒豹楽隊]]にとって、欠かせない人物となるが、1991年10月、諸処の事情により脱退する。
  
 バンド解散と同時にソロ活動を始め、1993年初には波麗佳音公司との契約を解約し、魔岩唱片と契約する。7月18・19日、北京首都体育館で開かれた“奥運-中国之夢”大型ロックコンサートに参加した。
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脱退から2ヶ月後の12月には[[做夢楽隊]]を結成し、そして1992年の中ごろには[[波麗佳音公司]]とソロ契約し、アルバム制作を進めていたが、1992年10月に[[做夢楽隊]]は解散してしまう。
 
 
2008年7月5日、“樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜[日斤]2008上海演唱会”より
 
(撮影:YIREN)
 
 
  
 1994年、魔岩文化レーベルからソロデビューアルバム『黒夢』を発売し、大ヒットとなる。同レーベルからアルバムを発売した張楚、何勇とともに「魔岩三傑」と称される。6月には香港でコンサートを開き、RADIOHEADと同じ舞台に立った。12月17日には、香港で行われた“中国揺滾楽勢力”コンサートに参加した。同舞台には、張楚・何勇・唐朝楽隊が立った。
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バンド解散と同時にソロ活動を始め、1993年初には[[波麗佳音公司]]との契約を解約し、[[魔岩唱片]]と契約する。
 1995年10月には、2ndアルバム『艶色天』を発売する。翌年には、王菲(フェイ・ウォン)と結婚する。1997年1月には、竇靖童(女性)が誕生する。
 
  
 1998年11月、3rdアルバム『山河水』が発売となった。
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1994年、[[魔岩文化]]レーベルからソロデビューアルバム『[[黒夢(竇唯)|黒夢]]』を発売し、大ヒットとなる。同レーベルからアルバムを発売した[[張楚]]・[[何勇]]とともに[[魔岩三傑]]と称される。12月17日には、[[香港]]で行なわれた[[中国揺滾楽勢力演唱会]]に参加し、人気の面で頂点を極めた。
  
 1999年3月になり、王菲と離婚する。同じ頃、竇唯は譯楽隊の練習風景を見学、そこで意気投合し、メンバーに加わる。そして久しぶりに公の場でライブ活動を始めた。また、不一定楽隊を結成し、ドラムを担当する。10月には、竇唯と譯楽隊の共同製作のアルバム『幻聴』が発売となった。また、張亞東と共に映画『我最中意的雪天』の音楽を担当する。
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1995年10月には、2ndアルバム『[[艶陽天(竇唯)|艶陽天]]』を発売する。翌年には、王菲(フェイ・ウォン)と結婚する。1997年1月には、竇靖童(女性)が誕生する。
  
 2000年2月には、中国独自編集によるベストアルバムが発売となる。7月には、日本独自編集による、彼のベストアルバムが発売となり、日本でもなお竇唯ファンが多いことを見せ付けた。同年、『雨吁』を製作する。
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1998年11月、3rdアルバム『[[山河水(竇唯)|山河水]]』が発売となった。
 
1998年9月11日、SCREAM CLUBでジャムっている竇唯
 
他には、謳歌や何勇がいた
 
(撮影:YIREN)
 
 
 この頃からかつてのボーカルを入れた曲作りではなく、ボーカルを必要としない、インストゥルメンタルを創作するようになっていった。決して後戻りせず、自分の道をひたすら突き進む彼のスタンスを窺うことができる。そのため、所属レコード会社の滾石唱片はアルバム自体が商業的ではないと捉えたようで、発売までには至らなかった。
 
 2001年1月には、台湾でベストアルバムが発売された。6月2日、西安の西安体育館で行われた“存在西安揺滾演唱会”に出演した。その後、譯楽隊を脱退する。その理由は、譯楽隊が次第にテクノスタイルへ変化しているのに対し、竇唯は音楽スタイルを変化させたくなかったためである。同年、FM3に参加し、台湾の林強と共に音楽劇『鏡花縁』の音楽を担当した。
 
  
 2002年、暮良文王を結成した。8月17日、雲南省麗江の玉龍雪山甘海子で行われた“麗江雪山音楽節”に竇唯與FM3として出演した。やがて、滾石唱片との契約が切れる。
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1999年3月になり、王菲と離婚する。同じ頃、竇唯は[[譯楽隊]]の練習風景を見学、そこで意気投合し、メンバーに加わる。そして久しぶりに公の場でライブ活動を始めた。また、[[不一定楽隊]]を結成し、[[ドラム]]を担当する。10月には、竇唯と[[譯楽隊]]の共同制作のアルバム『[[幻聴(竇唯・譯楽隊)|幻聴]]』が発売となった。また、[[張亜東]]と共に映画『[[我最中意的雪天(竇唯)|我最中意的雪天]]』の音楽を担当する。
  
 2003年4月、不一定楽隊とともに製作したアルバム『壹挙両得』が発売となった。この時、レコード会社との契約はしていなかった。8月31日、後現代城大庁で行われた“漂流記現代芸術展”に出演した。
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2000年、アルバム『[[雨吁(竇唯・譯楽隊)|雨吁]]』を制作する。
 
 
1999年、譯楽隊のライブにて
 
 
  
 2004年2月、FM3と共同クレジットで『鏡花縁記』が発売となった。3月から4月にかけて、後海の無名酒[ロ巴]で毎週月曜日、FM3と共に定期的にライブを行った。4月、無名酒[ロ巴]は閉店となってしまう。5月、2003年7月12・13日に不一定楽隊と共に行ったライブが、『三国四記』というタイトルで発売となった。6月25日、新豪運酒[ロ巴]で行われた張淺潜のライブにゲスト出演した。8月、アルバム『八段錦』が発売となった。9月末、不一定楽隊として、『五鵲六雁』が発売になった。12月、不一定楽隊として、『期過聖誕』が発売になった。上海声像出版社より、立て続けに竇唯関連のCDが出版されており、とある評論家は、季刊『竇唯』と言っているほどである。
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この頃からかつての[[ボーカル]]を入れた曲作りではなく、[[ボーカル]]を必要としない、[[インストゥルメンタル]]曲を創作するようになっていった。決して後戻りせず、自分の道をひたすら突き進む彼のスタンスを窺うことができる。そのため、所属レコード会社の[[滾石唱片]]はアルバム自体が商業的ではないと捉えたようで、発売までには至らなかった。
 2005年8月、不一定楽隊として、『八和』と『九生』が発売になった。8月7日、厦門の最[ロ巴]で行われた“最電子”電子音楽節にFM3・顔峻・武權と共に参加した。
 
  
 2006年4月、5人の共同クレジットによる『東遊記 上』と『東遊記 下』が発売となった。同月、不一定楽隊として『水先後古清風楽』が発売となった。
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2001年半ば、[[譯楽隊]]を脱退する。その理由は、[[譯楽隊]]が次第に[[エレクトロニカ]]スタイルへ変化しているのに対し、竇唯は音楽スタイルを変化させたくなかったためである。同年、[[FM3]]に参加し、[[台湾]]の林強と共に音楽劇「鏡花縁」の音楽を担当した。
 
2006年9月14日、東岸CAFE JAZZでのライブ
 
(撮影・写真提供:呉楠)
 
 5月、新聞社襲撃事件を起こして拘置所へ入ることになり、海外のマスコミからも注目を浴びるほどある意味大きな注目を浴びた。6月、2004年にFM3と共に行ったライブが、香港のLona Recordsより『後観音』として発売になった。8月、譯楽隊と2000年にレコーディングしたアルバム『雨吁』がようやく発売となった。9月14日、東岸CAFE JAZZで武權や顔峻とライブを行った。同年後半、不一樣楽隊を結成した。
 
 2007年2月、5人の共同クレジットによる『東遊記 現場版』が発売となった。7月21日、内モンゴル自治区鄂爾多斯成吉思汗旅遊区で行われた“首届鄂爾多斯草原揺滾音楽会”に参加した。9月30日、澳門の芸術広場で行われた“HUSH!! FULL BAND 馬拉松揺滾音楽祭2007”に参加した。11月、不一定楽隊として『松阿珠阿吉』と『佐羅在中国』が発売となった。
 
  
 2008年、樹音楽と契約した。同年、西山老妖楽隊に加入し、ドラムを担当した。6月、不一定楽隊として『798』が発売となった。7月5日、上海の上海大舞台で行われた“樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜[日斤]2008上海演唱会”に出演した。この時、譯楽隊以来、久々に歌を歌ったほか、音楽スタイルもテクノやダンス、ラップなどを融合させたスタイルとなり、評判を博した。
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2002年、[[暮良文王]]を結成した。やがて、[[滾石唱片]]との契約が切れる。
 
 
2003年7月13日、上海の新天地ARKで行われた不一定楽隊のライブより
 
(撮影:YIREN)
 
 
   7月5日、不一樣楽隊・竇唯・不一定楽隊名義の5枚のアルバムが1となったアルバムボックス『五音環楽』が発売となった。9月、竇唯が全ての音楽を担当した映画のサウンドトラック『《李米的猜想》電影原声専輯』が発売となった。
 
 2009年、地三鮮楽隊を結成した。
 
  
 2010年4月、不一樣楽隊として『早春的雨傘』が発売となった。
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2003年4月、[[不一定楽隊]]とともに制作したアルバム『[[一挙+両得(竇唯・不一定楽隊)|一挙+両得]]』が発売となった。この時、レコード会社との契約はしていなかった。
 
  
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2004年2月、[[FM3]]と共同クレジットで『[[鏡花縁記(竇唯・FM3)|鏡花縁記]]』が発売となった。8月、アルバム『[[八段錦(竇唯)|八段錦]]』が発売となった。[[上海声像出版社]]より、立て続けに竇唯及び竇唯が参加したアルバムのCDが出版されており、とある評論家は、季刊『竇唯』と言っているほどであった。
  
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2006年4月、5人の共同クレジットによる『[[東遊記 上(寧英杰・巫娜・張荐・文智湧・竇唯)|東遊記 上]]』と『[[東遊記 下(寧英杰・巫娜・張荐・文智湧・竇唯)|東遊記 下]]』が発売となった。5月、新聞社襲撃事件を起こして拘置所へ入ることになり、海外のマスコミからも注目を浴びるほどある意味大きな注目を浴びた。8月、[[譯楽隊]]と2000年にレコーディングしたアルバム『[[雨吁(竇唯・譯楽隊)|雨吁]]』がようやく発売となった。同年後半、[[不一様楽隊]]を結成した。
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2008年、[[樹音楽]]と契約した。同年、[[西山老妖楽隊]]に加入し、[[ドラム]]を担当した。7月5日、[[上海市]]の[[上海大舞台]]で行なわれた[[上海大舞台/2008年7月5日|樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜昕2008上海演唱会]]に出演した。この時、[[譯楽隊]]以来、久々に歌を歌ったほか、音楽スタイルも[[エレクトロニカ]]や[[ダンス]]、[ラップ]]などを融合させたスタイルとなり、評判を博した。7月5日、[[不一様楽隊]]・竇唯・[[不一定楽隊]]名義の5枚のアルバムが1つとなったアルバムボックス『[[五音環楽(竇唯・不一定楽隊・不一様楽隊)|五音環楽]]』が発売となった。9月、竇唯が全ての音楽を担当した映画のサウンドトラック『[[《李米的猜想》電影原声専輯]]』が発売となった。
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2009年、[[地三鮮楽隊]]を結成した。
  
 
2010年4月、[[竇唯音楽工作室]]を設立した。
 
2010年4月、[[竇唯音楽工作室]]を設立した。
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*[[奥運-中国之夢|1993年7月18・19日 北京市 首都体育館 奥運-中国之夢]]
 
*[[奥運-中国之夢|1993年7月18・19日 北京市 首都体育館 奥運-中国之夢]]
 
*1994年6月 香港 共演:Radiohead
 
*1994年6月 香港 共演:Radiohead
*1994年12月17日 香港 紅磡体育館 揺滾中国楽勢力演唱会
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*1994年12月17日 香港 紅磡体育館 [[揺滾中国楽勢力演唱会]]
 
*[[麗江雪山音楽節/2002年8月17日|2002年8月17日 雲南省麗江市 玉龍雪山甘海子 麗江雪山音楽節]] クレジット:竇唯与[[FM3]]
 
*[[麗江雪山音楽節/2002年8月17日|2002年8月17日 雲南省麗江市 玉龍雪山甘海子 麗江雪山音楽節]] クレジット:竇唯与[[FM3]]
 
*[[後現代城大庁/2003年8月31日|2003年8月31日 北京市 後現代城大庁 漂流記現代芸術展]]
 
*[[後現代城大庁/2003年8月31日|2003年8月31日 北京市 後現代城大庁 漂流記現代芸術展]]

2011年8月6日 (土) 09:38時点における版

竇唯
Douwei 53.jpg
2008年7月5日、「樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜昕2008上海演唱会」より。(撮影:YIREN
基本情報
中国語名(簡体字) 窦唯
中国語名(繁体字) 竇唯
拼音 Dou Wei
発音転記 ドウ ウエイ
出生日 1969年10月14日
学歴 北京市第五中学
出身地 北京市
担当楽器 ボーカルギタードラムピアノ
ジャンル オルタナティブ即興音楽実験音楽
職業 プロダクション経営者
活動期間 1987年 -
1998年9月11日、北京市嚎叫倶楽部でジャムっている竇唯。他には、謳歌何勇がいた。(撮影:YIREN
1999年、譯楽隊のライブにて。
2006年9月14日、東岸CAFE JAZZでのライブ。(撮影・写真提供:呉楠)
2003年7月13日、上海市新天地ARKで行なわれた不一定楽隊のライブより。(撮影:YIREN

竇唯(ドウ ウエイ、Dou Wei、1969年10月14日 -)は、北京市で活動しているアーティスト。元・黒豹楽隊ボーカリストとして有名になり、ソロ活動を開始してからは、中国を代表するロックアーティストの1人として、アルバムを立て続けに発表している。その後、即興音楽

経歴

1982年、北京市北京市第五中学に入学する。1983年、欧米の音楽を聴くようになる。この頃からロックに興味を持ちはじめ、1984年には、ギターを独学で勉強する。1985年、高校に入学し、精神病看護について勉強する。1987年、学校を辞め、ライブを行なうようになる。

1988年、黒豹楽隊ボーカルとして加入する。黒豹楽隊の大部分の作詞作曲を手がけ、黒豹楽隊にとって、欠かせない人物となるが、1991年10月、諸処の事情により脱退する。

脱退から2ヶ月後の12月には做夢楽隊を結成し、そして1992年の中ごろには波麗佳音公司とソロ契約し、アルバム制作を進めていたが、1992年10月に做夢楽隊は解散してしまう。

バンド解散と同時にソロ活動を始め、1993年初には波麗佳音公司との契約を解約し、魔岩唱片と契約する。

1994年、魔岩文化レーベルからソロデビューアルバム『黒夢』を発売し、大ヒットとなる。同レーベルからアルバムを発売した張楚何勇とともに魔岩三傑と称される。12月17日には、香港で行なわれた中国揺滾楽勢力演唱会に参加し、人気の面で頂点を極めた。

1995年10月には、2ndアルバム『艶陽天』を発売する。翌年には、王菲(フェイ・ウォン)と結婚する。1997年1月には、竇靖童(女性)が誕生する。

1998年11月、3rdアルバム『山河水』が発売となった。

1999年3月になり、王菲と離婚する。同じ頃、竇唯は譯楽隊の練習風景を見学、そこで意気投合し、メンバーに加わる。そして久しぶりに公の場でライブ活動を始めた。また、不一定楽隊を結成し、ドラムを担当する。10月には、竇唯と譯楽隊の共同制作のアルバム『幻聴』が発売となった。また、張亜東と共に映画『我最中意的雪天』の音楽を担当する。

2000年、アルバム『雨吁』を制作する。

この頃からかつてのボーカルを入れた曲作りではなく、ボーカルを必要としない、インストゥルメンタル曲を創作するようになっていった。決して後戻りせず、自分の道をひたすら突き進む彼のスタンスを窺うことができる。そのため、所属レコード会社の滾石唱片はアルバム自体が商業的ではないと捉えたようで、発売までには至らなかった。

2001年半ば、譯楽隊を脱退する。その理由は、譯楽隊が次第にエレクトロニカスタイルへ変化しているのに対し、竇唯は音楽スタイルを変化させたくなかったためである。同年、FM3に参加し、台湾の林強と共に音楽劇「鏡花縁」の音楽を担当した。

2002年、暮良文王を結成した。やがて、滾石唱片との契約が切れる。

2003年4月、不一定楽隊とともに制作したアルバム『一挙+両得』が発売となった。この時、レコード会社との契約はしていなかった。

2004年2月、FM3と共同クレジットで『鏡花縁記』が発売となった。8月、アルバム『八段錦』が発売となった。上海声像出版社より、立て続けに竇唯及び竇唯が参加したアルバムのCDが出版されており、とある評論家は、季刊『竇唯』と言っているほどであった。

2006年4月、5人の共同クレジットによる『東遊記 上』と『東遊記 下』が発売となった。5月、新聞社襲撃事件を起こして拘置所へ入ることになり、海外のマスコミからも注目を浴びるほどある意味大きな注目を浴びた。8月、譯楽隊と2000年にレコーディングしたアルバム『雨吁』がようやく発売となった。同年後半、不一様楽隊を結成した。

2008年、樹音楽と契約した。同年、西山老妖楽隊に加入し、ドラムを担当した。7月5日、上海市上海大舞台で行なわれた樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜昕2008上海演唱会に出演した。この時、譯楽隊以来、久々に歌を歌ったほか、音楽スタイルもエレクトロニカダンス、[ラップ]]などを融合させたスタイルとなり、評判を博した。7月5日、不一様楽隊・竇唯・不一定楽隊名義の5枚のアルバムが1つとなったアルバムボックス『五音環楽』が発売となった。9月、竇唯が全ての音楽を担当した映画のサウンドトラック『《李米的猜想》電影原声専輯』が発売となった。

2009年、地三鮮楽隊を結成した。

2010年4月、竇唯音楽工作室を設立した。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

シングル

オリジナル・サウンドトラック

ベスト・アルバム

アルバム・ボックス

デモテープ

コラボレーション・アルバム

ソロ発表曲 

曲名アルバム名発表年備考

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考
揺滾娃娃另一個我2010/6/24プロデューサー、編曲全曲参加
岳浩昆我們2010/7/20プロデューサー、パーカッション、キーボード、簫、デザイン(yafeiと)8曲参加
アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考

主要なライブ・コンサート

外部リンク