「竇唯」の版間の差分

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*[[奥運-中国之夢|1993年7月18・19日 北京市 首都体育館 奥運-中国之夢]]
 
*[[奥運-中国之夢|1993年7月18・19日 北京市 首都体育館 奥運-中国之夢]]
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 脱退から2ヶ月後の12月には做夢楽隊を結成し、そして1992年の中ごろには波麗佳音公司とソロ契約し、アルバム製作を進めていたが、1992年10月に做夢楽隊は解散してしまう。
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 バンド解散と同時にソロ活動を始め、1993年初には波麗佳音公司との契約を解約し、魔岩唱片と契約する。7月18・19日、北京首都体育館で開かれた“奥運-中国之夢”大型ロックコンサートに参加した。
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2008年7月5日、“樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜[日斤]2008上海演唱会”より
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(撮影:YIREN)
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 1994年、魔岩文化レーベルからソロデビューアルバム『黒夢』を発売し、大ヒットとなる。同レーベルからアルバムを発売した張楚、何勇とともに「魔岩三傑」と称される。6月には香港でコンサートを開き、RADIOHEADと同じ舞台に立った。12月17日には、香港で行われた“中国揺滾楽勢力”コンサートに参加した。同舞台には、張楚・何勇・唐朝楽隊が立った。
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 1995年10月には、2ndアルバム『艶色天』を発売する。翌年には、王菲(フェイ・ウォン)と結婚する。1997年1月には、竇靖童(女性)が誕生する。
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 1998年11月、3rdアルバム『山河水』が発売となった。
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 1999年3月になり、王菲と離婚する。同じ頃、竇唯は譯楽隊の練習風景を見学、そこで意気投合し、メンバーに加わる。そして久しぶりに公の場でライブ活動を始めた。また、不一定楽隊を結成し、ドラムを担当する。10月には、竇唯と譯楽隊の共同製作のアルバム『幻聴』が発売となった。また、張亞東と共に映画『我最中意的雪天』の音楽を担当する。
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 2000年2月には、中国独自編集によるベストアルバムが発売となる。7月には、日本独自編集による、彼のベストアルバムが発売となり、日本でもなお竇唯ファンが多いことを見せ付けた。同年、『雨吁』を製作する。
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1998年9月11日、SCREAM CLUBでジャムっている竇唯
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他には、謳歌や何勇がいた
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(撮影:YIREN)
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 この頃からかつてのボーカルを入れた曲作りではなく、ボーカルを必要としない、インストゥルメンタルを創作するようになっていった。決して後戻りせず、自分の道をひたすら突き進む彼のスタンスを窺うことができる。そのため、所属レコード会社の滾石唱片はアルバム自体が商業的ではないと捉えたようで、発売までには至らなかった。
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 2001年1月には、台湾でベストアルバムが発売された。6月2日、西安の西安体育館で行われた“存在西安揺滾演唱会”に出演した。その後、譯楽隊を脱退する。その理由は、譯楽隊が次第にテクノスタイルへ変化しているのに対し、竇唯は音楽スタイルを変化させたくなかったためである。同年、FM3に参加し、台湾の林強と共に音楽劇『鏡花縁』の音楽を担当した。
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 2002年、暮良文王を結成した。8月17日、雲南省麗江の玉龍雪山甘海子で行われた“麗江雪山音楽節”に竇唯與FM3として出演した。やがて、滾石唱片との契約が切れる。
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 2003年4月、不一定楽隊とともに製作したアルバム『壹挙両得』が発売となった。この時、レコード会社との契約はしていなかった。8月31日、後現代城大庁で行われた“漂流記現代芸術展”に出演した。
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1999年、譯楽隊のライブにて
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 2004年2月、FM3と共同クレジットで『鏡花縁記』が発売となった。3月から4月にかけて、後海の無名酒[ロ巴]で毎週月曜日、FM3と共に定期的にライブを行った。4月、無名酒[ロ巴]は閉店となってしまう。5月、2003年7月12・13日に不一定楽隊と共に行ったライブが、『三国四記』というタイトルで発売となった。6月25日、新豪運酒[ロ巴]で行われた張淺潜のライブにゲスト出演した。8月、アルバム『八段錦』が発売となった。9月末、不一定楽隊として、『五鵲六雁』が発売になった。12月、不一定楽隊として、『期過聖誕』が発売になった。上海声像出版社より、立て続けに竇唯関連のCDが出版されており、とある評論家は、季刊『竇唯』と言っているほどである。
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 2005年8月、不一定楽隊として、『八和』と『九生』が発売になった。8月7日、厦門の最[ロ巴]で行われた“最電子”電子音楽節にFM3・顔峻・武權と共に参加した。
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 2006年4月、5人の共同クレジットによる『東遊記 上』と『東遊記 下』が発売となった。同月、不一定楽隊として『水先後古清風楽』が発売となった。
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2006年9月14日、東岸CAFE JAZZでのライブ
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(撮影・写真提供:呉楠)
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 5月、新聞社襲撃事件を起こして拘置所へ入ることになり、海外のマスコミからも注目を浴びるほどある意味大きな注目を浴びた。6月、2004年にFM3と共に行ったライブが、香港のLona Recordsより『後観音』として発売になった。8月、譯楽隊と2000年にレコーディングしたアルバム『雨吁』がようやく発売となった。9月14日、東岸CAFE JAZZで武權や顔峻とライブを行った。同年後半、不一樣楽隊を結成した。
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 2007年2月、5人の共同クレジットによる『東遊記 現場版』が発売となった。7月21日、内モンゴル自治区鄂爾多斯成吉思汗旅遊区で行われた“首届鄂爾多斯草原揺滾音楽会”に参加した。9月30日、澳門の芸術広場で行われた“HUSH!! FULL BAND 馬拉松揺滾音楽祭2007”に参加した。11月、不一定楽隊として『松阿珠阿吉』と『佐羅在中国』が発売となった。
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 2008年、樹音楽と契約した。同年、西山老妖楽隊に加入し、ドラムを担当した。6月、不一定楽隊として『798』が発売となった。7月5日、上海の上海大舞台で行われた“樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜[日斤]2008上海演唱会”に出演した。この時、譯楽隊以来、久々に歌を歌ったほか、音楽スタイルもテクノやダンス、ラップなどを融合させたスタイルとなり、評判を博した。
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2003年7月13日、上海の新天地ARKで行われた不一定楽隊のライブより
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(撮影:YIREN)
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   7月5日、不一樣楽隊・竇唯・不一定楽隊名義の5枚のアルバムが1となったアルバムボックス『五音環楽』が発売となった。9月、竇唯が全ての音楽を担当した映画のサウンドトラック『《李米的猜想》電影原声専輯』が発売となった。
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 2009年、地三鮮楽隊を結成した。
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 2010年4月、不一樣楽隊として『早春的雨傘』が発売となった。
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==

2011年8月5日 (金) 18:00時点における版

竇唯
Douwei 53.jpg
2008年7月5日、「樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜昕2008上海演唱会」より。(撮影:YIREN
基本情報
中国語名(簡体字) 窦唯
中国語名(繁体字) 竇唯
拼音 Dou Wei
発音転記 ドウ ウエイ
出生日 1969年10月14日
学歴 北京市第五中学
出身地 北京市
担当楽器 ボーカルギタードラムピアノ
ジャンル オルタナティブ即興音楽実験音楽
職業 プロダクション経営者
1998年9月11日、北京市嚎叫倶楽部でジャムっている竇唯。他には、謳歌何勇がいた。(撮影:YIREN
1999年、譯楽隊のライブにて。
2006年9月14日、東岸CAFE JAZZでのライブ。(撮影・写真提供:呉楠)
2003年7月13日、上海市新天地ARKで行なわれた不一定楽隊のライブより。(撮影:YIREN

竇唯(ドウ ウエイ、Dou Wei、1969年10月14日 -)は、北京市で活動しているアーティスト。元・黒豹楽隊ボーカリストとして有名になり、ソロ活動を開始してからは、中国を代表するロックアーティストの1人として、アルバムを立て続けに発表している。その後、即興音楽

経歴

1982年、北京市第五中学に入学する。1983年、欧米の音楽を聴くようになる。この頃からロックに興味を持ちはじめ、1984年には、ギターを独学で勉強する。1985年、高校に入学し、精神病看護について勉強する。1987年、学校を辞め、ライブを行うようになる。  1988年、黒豹楽隊にボーカルとして加入する。黒豹楽隊の大部分の詞曲を手がけ、黒豹楽隊にとって、欠かせない人物となるが、1991年10月、諸処の事情により脱退する。

 脱退から2ヶ月後の12月には做夢楽隊を結成し、そして1992年の中ごろには波麗佳音公司とソロ契約し、アルバム製作を進めていたが、1992年10月に做夢楽隊は解散してしまう。

 バンド解散と同時にソロ活動を始め、1993年初には波麗佳音公司との契約を解約し、魔岩唱片と契約する。7月18・19日、北京首都体育館で開かれた“奥運-中国之夢”大型ロックコンサートに参加した。


2008年7月5日、“樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜[日斤]2008上海演唱会”より (撮影:YIREN)


 1994年、魔岩文化レーベルからソロデビューアルバム『黒夢』を発売し、大ヒットとなる。同レーベルからアルバムを発売した張楚、何勇とともに「魔岩三傑」と称される。6月には香港でコンサートを開き、RADIOHEADと同じ舞台に立った。12月17日には、香港で行われた“中国揺滾楽勢力”コンサートに参加した。同舞台には、張楚・何勇・唐朝楽隊が立った。

 1995年10月には、2ndアルバム『艶色天』を発売する。翌年には、王菲(フェイ・ウォン)と結婚する。1997年1月には、竇靖童(女性)が誕生する。

 1998年11月、3rdアルバム『山河水』が発売となった。

 1999年3月になり、王菲と離婚する。同じ頃、竇唯は譯楽隊の練習風景を見学、そこで意気投合し、メンバーに加わる。そして久しぶりに公の場でライブ活動を始めた。また、不一定楽隊を結成し、ドラムを担当する。10月には、竇唯と譯楽隊の共同製作のアルバム『幻聴』が発売となった。また、張亞東と共に映画『我最中意的雪天』の音楽を担当する。

 2000年2月には、中国独自編集によるベストアルバムが発売となる。7月には、日本独自編集による、彼のベストアルバムが発売となり、日本でもなお竇唯ファンが多いことを見せ付けた。同年、『雨吁』を製作する。

1998年9月11日、SCREAM CLUBでジャムっている竇唯 他には、謳歌や何勇がいた (撮影:YIREN)

 この頃からかつてのボーカルを入れた曲作りではなく、ボーカルを必要としない、インストゥルメンタルを創作するようになっていった。決して後戻りせず、自分の道をひたすら突き進む彼のスタンスを窺うことができる。そのため、所属レコード会社の滾石唱片はアルバム自体が商業的ではないと捉えたようで、発売までには至らなかった。  2001年1月には、台湾でベストアルバムが発売された。6月2日、西安の西安体育館で行われた“存在西安揺滾演唱会”に出演した。その後、譯楽隊を脱退する。その理由は、譯楽隊が次第にテクノスタイルへ変化しているのに対し、竇唯は音楽スタイルを変化させたくなかったためである。同年、FM3に参加し、台湾の林強と共に音楽劇『鏡花縁』の音楽を担当した。

 2002年、暮良文王を結成した。8月17日、雲南省麗江の玉龍雪山甘海子で行われた“麗江雪山音楽節”に竇唯與FM3として出演した。やがて、滾石唱片との契約が切れる。

 2003年4月、不一定楽隊とともに製作したアルバム『壹挙両得』が発売となった。この時、レコード会社との契約はしていなかった。8月31日、後現代城大庁で行われた“漂流記現代芸術展”に出演した。


1999年、譯楽隊のライブにて


 2004年2月、FM3と共同クレジットで『鏡花縁記』が発売となった。3月から4月にかけて、後海の無名酒[ロ巴]で毎週月曜日、FM3と共に定期的にライブを行った。4月、無名酒[ロ巴]は閉店となってしまう。5月、2003年7月12・13日に不一定楽隊と共に行ったライブが、『三国四記』というタイトルで発売となった。6月25日、新豪運酒[ロ巴]で行われた張淺潜のライブにゲスト出演した。8月、アルバム『八段錦』が発売となった。9月末、不一定楽隊として、『五鵲六雁』が発売になった。12月、不一定楽隊として、『期過聖誕』が発売になった。上海声像出版社より、立て続けに竇唯関連のCDが出版されており、とある評論家は、季刊『竇唯』と言っているほどである。

 2005年8月、不一定楽隊として、『八和』と『九生』が発売になった。8月7日、厦門の最[ロ巴]で行われた“最電子”電子音楽節にFM3・顔峻・武權と共に参加した。

 2006年4月、5人の共同クレジットによる『東遊記 上』と『東遊記 下』が発売となった。同月、不一定楽隊として『水先後古清風楽』が発売となった。

2006年9月14日、東岸CAFE JAZZでのライブ (撮影・写真提供:呉楠)  5月、新聞社襲撃事件を起こして拘置所へ入ることになり、海外のマスコミからも注目を浴びるほどある意味大きな注目を浴びた。6月、2004年にFM3と共に行ったライブが、香港のLona Recordsより『後観音』として発売になった。8月、譯楽隊と2000年にレコーディングしたアルバム『雨吁』がようやく発売となった。9月14日、東岸CAFE JAZZで武權や顔峻とライブを行った。同年後半、不一樣楽隊を結成した。  2007年2月、5人の共同クレジットによる『東遊記 現場版』が発売となった。7月21日、内モンゴル自治区鄂爾多斯成吉思汗旅遊区で行われた“首届鄂爾多斯草原揺滾音楽会”に参加した。9月30日、澳門の芸術広場で行われた“HUSH!! FULL BAND 馬拉松揺滾音楽祭2007”に参加した。11月、不一定楽隊として『松阿珠阿吉』と『佐羅在中国』が発売となった。

 2008年、樹音楽と契約した。同年、西山老妖楽隊に加入し、ドラムを担当した。6月、不一定楽隊として『798』が発売となった。7月5日、上海の上海大舞台で行われた“樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜[日斤]2008上海演唱会”に出演した。この時、譯楽隊以来、久々に歌を歌ったほか、音楽スタイルもテクノやダンス、ラップなどを融合させたスタイルとなり、評判を博した。


2003年7月13日、上海の新天地ARKで行われた不一定楽隊のライブより (撮影:YIREN)

   7月5日、不一樣楽隊・竇唯・不一定楽隊名義の5枚のアルバムが1となったアルバムボックス『五音環楽』が発売となった。9月、竇唯が全ての音楽を担当した映画のサウンドトラック『《李米的猜想》電影原声専輯』が発売となった。  2009年、地三鮮楽隊を結成した。

 2010年4月、不一樣楽隊として『早春的雨傘』が発売となった。



2010年4月、竇唯音楽工作室を設立した。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

ライブ・アルバム

シングル

オリジナル・サウンドトラック

ベスト・アルバム

アルバム・ボックス

デモテープ

コラボレーション・アルバム

ソロ発表曲 

曲名アルバム名発表年備考

参加アルバム 

アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考
揺滾娃娃另一個我2010/6/24プロデューサー、編曲全曲参加
岳浩昆我們2010/7/20プロデューサー、パーカッション、キーボード、簫、デザイン(yafeiと)8曲参加
アーティスト・バンド名曲名アルバム名発表年参加形態備考

出演

媒体曲名収録ソフト名発表年参加形態備考

主要なライブ・コンサート

 脱退から2ヶ月後の12月には做夢楽隊を結成し、そして1992年の中ごろには波麗佳音公司とソロ契約し、アルバム製作を進めていたが、1992年10月に做夢楽隊は解散してしまう。

 バンド解散と同時にソロ活動を始め、1993年初には波麗佳音公司との契約を解約し、魔岩唱片と契約する。7月18・19日、北京首都体育館で開かれた“奥運-中国之夢”大型ロックコンサートに参加した。


2008年7月5日、“樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜[日斤]2008上海演唱会”より (撮影:YIREN)


 1994年、魔岩文化レーベルからソロデビューアルバム『黒夢』を発売し、大ヒットとなる。同レーベルからアルバムを発売した張楚、何勇とともに「魔岩三傑」と称される。6月には香港でコンサートを開き、RADIOHEADと同じ舞台に立った。12月17日には、香港で行われた“中国揺滾楽勢力”コンサートに参加した。同舞台には、張楚・何勇・唐朝楽隊が立った。

 1995年10月には、2ndアルバム『艶色天』を発売する。翌年には、王菲(フェイ・ウォン)と結婚する。1997年1月には、竇靖童(女性)が誕生する。

 1998年11月、3rdアルバム『山河水』が発売となった。

 1999年3月になり、王菲と離婚する。同じ頃、竇唯は譯楽隊の練習風景を見学、そこで意気投合し、メンバーに加わる。そして久しぶりに公の場でライブ活動を始めた。また、不一定楽隊を結成し、ドラムを担当する。10月には、竇唯と譯楽隊の共同製作のアルバム『幻聴』が発売となった。また、張亞東と共に映画『我最中意的雪天』の音楽を担当する。

 2000年2月には、中国独自編集によるベストアルバムが発売となる。7月には、日本独自編集による、彼のベストアルバムが発売となり、日本でもなお竇唯ファンが多いことを見せ付けた。同年、『雨吁』を製作する。

1998年9月11日、SCREAM CLUBでジャムっている竇唯 他には、謳歌や何勇がいた (撮影:YIREN)

 この頃からかつてのボーカルを入れた曲作りではなく、ボーカルを必要としない、インストゥルメンタルを創作するようになっていった。決して後戻りせず、自分の道をひたすら突き進む彼のスタンスを窺うことができる。そのため、所属レコード会社の滾石唱片はアルバム自体が商業的ではないと捉えたようで、発売までには至らなかった。  2001年1月には、台湾でベストアルバムが発売された。6月2日、西安の西安体育館で行われた“存在西安揺滾演唱会”に出演した。その後、譯楽隊を脱退する。その理由は、譯楽隊が次第にテクノスタイルへ変化しているのに対し、竇唯は音楽スタイルを変化させたくなかったためである。同年、FM3に参加し、台湾の林強と共に音楽劇『鏡花縁』の音楽を担当した。

 2002年、暮良文王を結成した。8月17日、雲南省麗江の玉龍雪山甘海子で行われた“麗江雪山音楽節”に竇唯與FM3として出演した。やがて、滾石唱片との契約が切れる。

 2003年4月、不一定楽隊とともに製作したアルバム『壹挙両得』が発売となった。この時、レコード会社との契約はしていなかった。8月31日、後現代城大庁で行われた“漂流記現代芸術展”に出演した。


1999年、譯楽隊のライブにて


 2004年2月、FM3と共同クレジットで『鏡花縁記』が発売となった。3月から4月にかけて、後海の無名酒[ロ巴]で毎週月曜日、FM3と共に定期的にライブを行った。4月、無名酒[ロ巴]は閉店となってしまう。5月、2003年7月12・13日に不一定楽隊と共に行ったライブが、『三国四記』というタイトルで発売となった。6月25日、新豪運酒[ロ巴]で行われた張淺潜のライブにゲスト出演した。8月、アルバム『八段錦』が発売となった。9月末、不一定楽隊として、『五鵲六雁』が発売になった。12月、不一定楽隊として、『期過聖誕』が発売になった。上海声像出版社より、立て続けに竇唯関連のCDが出版されており、とある評論家は、季刊『竇唯』と言っているほどである。

 2005年8月、不一定楽隊として、『八和』と『九生』が発売になった。8月7日、厦門の最[ロ巴]で行われた“最電子”電子音楽節にFM3・顔峻・武權と共に参加した。

 2006年4月、5人の共同クレジットによる『東遊記 上』と『東遊記 下』が発売となった。同月、不一定楽隊として『水先後古清風楽』が発売となった。

2006年9月14日、東岸CAFE JAZZでのライブ (撮影・写真提供:呉楠)  5月、新聞社襲撃事件を起こして拘置所へ入ることになり、海外のマスコミからも注目を浴びるほどある意味大きな注目を浴びた。6月、2004年にFM3と共に行ったライブが、香港のLona Recordsより『後観音』として発売になった。8月、譯楽隊と2000年にレコーディングしたアルバム『雨吁』がようやく発売となった。9月14日、東岸CAFE JAZZで武權や顔峻とライブを行った。同年後半、不一樣楽隊を結成した。  2007年2月、5人の共同クレジットによる『東遊記 現場版』が発売となった。7月21日、内モンゴル自治区鄂爾多斯成吉思汗旅遊区で行われた“首届鄂爾多斯草原揺滾音楽会”に参加した。9月30日、澳門の芸術広場で行われた“HUSH!! FULL BAND 馬拉松揺滾音楽祭2007”に参加した。11月、不一定楽隊として『松阿珠阿吉』と『佐羅在中国』が発売となった。

 2008年、樹音楽と契約した。同年、西山老妖楽隊に加入し、ドラムを担当した。6月、不一定楽隊として『798』が発売となった。7月5日、上海の上海大舞台で行われた“樹生長的声音 - 竇唯・張楚・何勇・姜[日斤]2008上海演唱会”に出演した。この時、譯楽隊以来、久々に歌を歌ったほか、音楽スタイルもテクノやダンス、ラップなどを融合させたスタイルとなり、評判を博した。


2003年7月13日、上海の新天地ARKで行われた不一定楽隊のライブより (撮影:YIREN)

   7月5日、不一樣楽隊・竇唯・不一定楽隊名義の5枚のアルバムが1となったアルバムボックス『五音環楽』が発売となった。9月、竇唯が全ての音楽を担当した映画のサウンドトラック『《李米的猜想》電影原声専輯』が発売となった。  2009年、地三鮮楽隊を結成した。

 2010年4月、不一樣楽隊として『早春的雨傘』が発売となった。

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